和 而 不 同
主教 アンデレ 大畑 喜道
主教按手のおりに、ある方から掛け軸を頂きました。そこに書かれていた一語が、和而不同です。漢籍の素養がない自分が自分なりに考えてみました。同じでないにも拘らず和を楽しんでいる。同じで無いけれども和やかでいる。 私たちは同質の存在でなければ和を保てないと考えがちです。そして同質であろうと、相手を自分に合わせたり、自分を相手に合わせたりします。しかしここには無理が生じてきます。ありのままの相手や自分を受け入れるのではなく、無理やりにある枠組みに合わせていく。そのようにして和を保つようなものが教会ではなく、ありのままのあなたを受け入れ合う。尊重しあうことに教会の本来の姿があるように思います。しかしこれがなかなかできません。主教按手のお茶会の時の挨拶で、落語で「百年目」の中の、赤栴檀と難莚草の話をしました。醜いからといって難莚草を抜いてしまったら赤栴檀が枯れてしまう。自分の価値判断で、これは不必要だと決め付けるところに問題が出てきます。教会は全ての人が安心してありのままで受け入れられるように、和を保つことができるような場でなければ。一瞬醜いと思えるようなものであったとしても、すべてが調和よくまとまったものは耀きをもってきます。あなたも、あなたも、あなたもみんなで作り上げていく。それが教会の本当の姿です。イスラエルの人々がエジプトから脱出し、荒れ野での放浪の旅を終えて約束の地に入るときに、神は祭壇を築けと命じます。その時に、石に鉄を当ててはならないと命じます。掘り出したままの石で築けと命じるのです。掘り出したままの石は形も不ぞろい、三角や四角や丸や、積み上げるには大変な苦労が生じるのだろうと思います。しかしあえてそうしろと神は命じられた。教会の姿はあなたを受け入れる、わたしが受け入れられるという、そこには築き上げるための苦労がありますが、あえてその大変さを引き受けていくことが重要なことなのだと感じています。その確認をできるのが聖餐の交わりです。聖餐の交わりで強められ、私たちは全ての人が和而不同で築き上げられていくのだと思います。