竹田主教 教区新年礼拝説教
序
新年おめでとうございます。皆さんと一緒に教区の新年礼拝を捧げることをうれしく思っています。今年も皆さんの上に主の豊かなお恵みを祈ります。年末から年始にかけて、ノヴェナの礼拝で、お忙しいときと、せっかくの新年のお休みの時期を台無しにしてしまい、教区の皆さんから怨みを買うと心配していましたが、毎回多くの方々に参加していただき、この心配も杞憂だったと感じております。皆さんに心から感謝しております。
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今日1月6日は、主イエスの「顕現」の祝日です。もともと、主イエスの誕生日の祝日は1月6日でしたが、次第に12月25日にご降誕だけをお祝いするようになったようです。顕現日はご降誕のお祝いの一部といえますが、とくにこの日は、東の国の『占星術の学者』が、イエスの誕生を知って、ベツレヘムまで拝みに来た出来事を記念します。新共同訳聖書では『占星術の学者』と訳していますが、原語は「マゴス」―マジックの語源―『魔術』です。
占星術と魔術
この占星術の学者は、「星占い」あるいは「魔術師」として、古代ペルシャやヘレニズムの世界で、学者あるいは祭司として尊敬されていました。占星術の根拠となっている考え方は、天体に無数に輝く星のうち、それぞれの人にはその人の星があるということです。星は、それぞれ決まった位置と軌道があるので、占星術は、星の動きと場所を観測して、人の運勢を鑑定します。占星術の学者や魔術師は、人間の運命だけではなく、社会の動きも、宇宙の動きも予測する知識を修得しているということで、一般の人たちから特別な知恵者として尊敬されていました。
しかし、聖書の世界では、占星術や魔術には否定的でした。聖書の信仰は、人間の命だけではなく、被造物すべてが神様のみ心に支配されているということです。人間の知識や魔術などで、運命を予測したり変えることが出来るという思想は、神のみ心に反逆する人間の傲慢な営みであると考えました。それぞれの人間の運命が、星の動きによって決められているという、人間の運勢を占う習慣は、日本にも昔からあります。日や月、季節によって、縁起が悪いあるいは良い日や時、方角など決められているという信心です。
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私たち人間の命は常に不安定であり、私たち人間はいつも自分の将来の運命を気にしながら生きています。従って、人間には、将来の見通しをつけておきたいという願望があります。自分の縁起の良し悪しを決めてくれる鑑定に頼りたくなります。星占いで運命を鑑定してもらったり、魔術で悪い運命を良いものに変えてもらえば、そのような不安から解放されます。古代社会では、――古代社会ばかりでなくどの時代でも――占いや魔術は大変尊重されたのです。しかし、聖書では、主イエスの福音によって、神が何時も私たちと共にいてくださって、どのような危機や不安定の状態にいても、恐れなく生きていくことが出来る信仰が与えられています。にもかかわらず、初期のキリスト教が、ことにギリシャの世界に広まっていくと、多くのクリスチャンは、周囲の社会で信奉されている占いや魔術の託宣に、再び引き付けられ、戻ってしまう傾向が出てきました。
私たち人間の命は常に不安定であり、私たち人間はいつも自分の将来の運命を気にしながら生きています。従って、人間には、将来の見通しをつけておきたいという願望があります。自分の縁起の良し悪しを決めてくれる鑑定に頼りたくなります。星占いで運命を鑑定してもらったり、魔術で悪い運命を良いものに変えてもらえば、そのような不安から解放されます。古代社会では、(古代社会ばかりでなくどのの時代でも)占いや魔術は大変尊重されたのです。しかし、聖書では、主イエスの福音によって、神が何時も私たちと共にいてくださって、どのような危機や不安定の状態にいても、恐れなく生きていくことが出来る信仰が与えられています。ところが、初期のキリスト教が、ことにギリシャの世界に広まっていくと、多くのクリスチャンは、周囲の社会で信奉されている占いや魔術の託宣に、再び引き付けられ、戻ってしまう傾向が出てきました。
『この世の諸霊』
パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で、「あの無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」(4章 節)と警告しています。「この世を支配する『諸霊』(ストイケイア)」とは、「真実の神でない神々」のことです。異邦人たちが信奉している、占いによる託宣です。自分の知識で考えだしたことを、天から聞いた神の声と宣伝して、純真で素朴な民衆を信じ込ませる偽りの預言や戒律です。人間の思想や知識を、あるいは物体を霊験あらたかなものとして、信仰の対象にしてしまうことです。聖書が繰り返し非難している偶像崇拝です。ガラテヤの信徒への手紙では、キリストの福音によって、このような諸霊から解放されて自由になったはずのガラテヤの信徒が、またその諸霊の信仰に逆戻りして、神々の奴隷になってしまったことを警告しています。
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誕生したイエスを拝むためにベツレヘムを訪ねた占星術の学者は、もともとは『諸霊』に仕える祭司でした。しかし、天体を観測しているうちに、不思議な星の光を発見して、ベツレヘムに『ユダヤ人の王が生まれた』ことを知り、はるばる東の国から、礼拝するために訪ねたのです。ガラテヤの信徒は、キリストの信仰から、『諸霊』の信心に逆戻りしました。反対に、この占星術の学者は『諸霊』の神々に仕える祭司から、「唯一の神」の信心に到達した学者たちです。星の動きによって、偽りの救いの宣伝をして、多くの人々に崇拝されていた学者が、星を観察しているうちに、その星が『ユダヤ人の王』の誕生を伝える神の器であることに気づいたのです。星その物が真理ではなく、星は神の真理に導く導き手なのです。この星の光の導きによって、神のみ子の誕生という知識に到達したのです。
ベツレヘムに生まれた貧しく、無力な幼子イエスに、「平伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」と書いてあります。一説によると、彼らの献げ物は、魔術のために使用する、彼らがそれによって生きていかなければならない、貴重な商売道具だったとも言われます。彼らは、自分たちの魔術―その営みを支えてくれていたもの―を、神のみ子に献げて、諸霊(神々)を越える神に帰依したのです。 イエスの顕現は、人間の不安につけ込んで取り込もうとする、『諸霊』からの解放です。闇に閉じ込められている状態の中、光の輝き、絶望の中の希望、お互いに切れてしまっている人と人との関係の中の孤独と対立の壁を乗り越えて輝く、和解と平和の道を照らす光りなのです。
現代社会の諸霊と解放
いよいよ二一世紀が始まりました。現代の世界、とくに日本の社会は、経済も、政治も、教育も、福祉も『諸霊』の支配が、ますます強くなっているようです。『諸霊』の支配の特徴は、人間にランクをつけ、区別し、分類する社会です。権力や財産を持つものが高く評価され、貧しく無力な人々が周辺に追いやられ無視される社会です。支配し、管理する人々と、抑圧され、社会の底辺で小さくされている人々がいるのは、星によって決められたものであり、変革したり批判することの出来ない正しい制度である…とする社会です。
経済的に豊かな者と貧しいもの、学校教育での偏差値によるランク付け、また自治体もランクがつけられ…占星術の托宣のように、どの学校に入学するかで、その人の将来が決められてしまうのです。肉体的精神的に弱くなっている老人たちの介護は、その健康状態の評価によってランクが決められ分類されます。権力と財産と知識と技術等をどの程度所有しているかによって人間や職業などの価値が決定されています。
一方においては権力を持ち、豊かであることを享受している人々がおり、他方、社会の底辺で無力で搾取され、苦しみ悲しむ人々がいることが当たり前と思いこんでいる人々が多くなっている社会です。 古代のアテネはその学問と民主的な市民社会で有名ですが、そのような社会の底辺には自由市民よりも多くの奴隷がいたのです。この抑圧された人々は、存在したことも無視されてきたのです。アテネでは、そのような社会が、神々が決めた社会として受け入れられていました。今の日本に生きる私たちも、このような『諸霊』が支配する世界に安住する誘惑を受けます。そして、自分よりも無力なもの、小さいものを抑圧することに、いつの間にか加担していることになるのです。
私たちの教区の宣教目標とプロジェクトは、このような状態は、神のみ心に反することであるという信仰的気づきに動機づけられています。私たちはこの現実に気づき、私たちの罪を懴悔し、み心にかなう社会の実現のためにこのノヴェナの礼拝をささげているのです。
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最後に私たちの聖公会の現状について、反省したいと思います。私たちの教会も、『諸霊』の支配に戻る危機に直面しています。一つは現代の、はっきりした規範が見いだせない混乱した状況の中で、もう一度過去のある特定の歴史状況の中で造られた習慣、制度を、神が制定したものとして、それを権威ある規範として押しつけて、混乱を治めようとする動きです。そのような秩序にどれだけ従順であるかによって、信仰の高さ低さのランク付けをする宗教にしてしまう傾向です。神の永遠の愛のみ業に仕え、仰ぎ見ることをしないで、歴史の中で形成された教理や制度を、神が定めたものとして、それを基準にして、信仰の在り方を裁き、また、それに従わなければ救われないと主張する動きです。
もう一つの傾向は、歴史の中で形成された伝承を無視して、自分独りの思い付きで神の福音を理解し、教会の礼拝や制度を自分の思いのままに作り替えようとする動きです。もともと神の言葉とはいえないことを、神から直接聞いたかのように、神の名で語ることです。とくに聖職は、常に自分の思いや行いや言葉を、聖書と伝承された教えに留意して、共同的学問研究と祈りによって謙遜に吟味してから、必要な変革を試みなければなりません。パウロは各自が思いのまま振る舞う、コリントの教会での聖餐式について、あなた方は主の晩餐でなく、自分自身の晩餐を楽しんでいると警告しています。
更にパウロは、「なぜ『「手をつけるな、味わうな、触れるな』などという戒律に縛られているのですか」と尋ねます。同時に「独り善がりの礼拝、偽りの謙遜」を戒めています(コロサイの信徒への手紙)。 二一世紀の日本の社会全体においても、また教会の中においても、私たちは『諸霊』の支配に注意を向けなければなりません。私たちは、イエスの顕現で明らかにされた、神の和解と平和を追い求め、神の愛の業にますます熱心に仕える恵みと力が与えられるように、この礼拝で共に祈りたいと思います。