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平和への祈り
練馬聖ガブリエル教会 鈴木玖磨子
その頃私たちは満州国奉天市におりました。
度々出る号外で南方での玉砕を知り、皆々心を暗くしました。
私たちは空襲警報に備えて、夜も昼も同じ服装で運動靴もはいたまま、ただ横になるだけでした。
朝、目がさめたら第一に御飯を炊き、炊けたらおにぎりをつくります。
いつ空襲警報があって防空壕に駆け込まなくてはならないか分らないからです。
そして解除を大声で告げて歩く警防団員の声が聞えるまで、暗い防空壕の中でじっとしていなければなりません。
当時二歳半の三女が号の暑さを嫌がって「出る、出る」といって困らせたことを覚えています。
その中、医大の家族は疎開することになり、夜の十一時頃医大の家族は奉天駅から、平常は牛や馬の輸送に使う無蓋車に乗って奉天駅を離れました。
主人たちは大学に残っていつ襲ってくるか分らないソ連軍の備えとして大学に残ったのでした。
夜半の無蓋車は黙々として発車しました。
翌朝早く沿線の小さな駅に着きました。
そこは葉タバコをつくる工場で広い板の間があり、私たちはそれぞれ家族で座りました。
多少顔見知りの人もありホッと致しました。
翌日引率の三人の先生方がしきりに何か話しておられ、その中に「今日は重大ニュースがあるから講堂に集まるように」と言われました。
私たちは何かしらと訝しみながら講堂に集まりました。
その時天皇陛下の玉音で戦争が終わったこと、戦争に負けたことなど悲痛なお声で聞かされました。
居並ぶ私たちは悲しいような安心の様な複雑な思いで、みな声をあげて泣きました。
もう戦争が終わった以上疎開の必要も無いので、再び奉天に戻ることになりました。
ところが奉天駅に着くと今までとまるで街の様子が変っているのです。
静かで美しかった奉天の街は暴動化していて大きな会社や富める人の家に暴徒が押しかけていろ色々の品物を持ち去り、ある印刷工場を暴徒が襲った時など白い紙が風に吹かれて空高く舞い上がったり、、本当に恐ろしい思いを致しました。
中国人の学生たちの希望で医大の先生たちは残らねばならず、家族たちだけ引き上げ船でコロ島から上陸用舟艇に乗って博多に周り、そこから引き上げ列車という引揚者のための列車に乗って、各自自分の里の近くの駅で下車を許され、私たちは主人の長兄の居る横浜駅で下車いたしました。
横浜も空襲で焼け野原と化しており、私たちは途方に繰れました。知らない人に平沼町のあたりを教えていただいてようやくたどり着きました。
戦争は絶対してはならないと思います。
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