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戦時教育の体験を通して

練馬聖ガブリエル教会 岩井 梅代


 戦後五十年はマスコミに、あらゆる角度からその傷跡を問題にさせています。

見えなくされて、突っ走らざるをえなくしてきたものは何だったのでしょうか。

 立教女学院百年史資料集の戦争時代の章を参照しますと、昭和六年満州事変、十二年日華事変を経て、十六年太平洋戦争に突入、二十年の敗戦に至るまでのほぼ十五年間は戦いの明け暮れであって、この間の教育、
「つまり戦争時代の教育の特色を一口で言えば、皇国民の錬成ということに尽きる」
とあります。
その通りであったと共感される皇国民の錬成教育をこの身に受け、教師としてそれを生徒に課したわたしでもあります。

 牧師の家に生まれ育ったわたしの公教育の始まりは、祈りで始まり祈りで終わる平安女学院付属幼稚園の三年間でした。
尋常小学校の六年間は、主なる神と日本の風土の神々との相剋に悩み始めた時と言えるでしょう。

教室に備った図書は民族的伝承−記紀にある国産み神話、建国伝説、皇国の祖神たる天照大神物語などでした。

満州進軍に伴ない国家主義は急速に強まり、天皇崇拝、神社参拝は国民の義務と見做され、修身、歴史(後に国史と改編)の授業の後は男子生徒に取り巻かれては
「お前、西洋の神さん拝んでるんやろ、わいらは日本の神さんじゃ」
と詰められるのでした。
父によれば
「神という語をキリスト教も使うので紛らわしくなって残念なことなのだが、日本の神は人々の祖先であって、神社参拝は祖先崇拝の表れ」
なのでした。

理解はできても、楽しいはずの修学旅行までも行き先が伊勢神宮では、やはりわだかまりが消えないのでした。

 高等女学校に進学後間もなく満州事変の勃発、登校下校時の奉安庫(「ご真影」−天皇の写真−の保管場所)礼拝、儀式や祝祭日は前日の予行演習時も含めて、教育勅語の奉読を頭を下げて聞くこと、祭日前後の全校生徒による桃山御陵、橦原神宮参拝、「習い性となる」教育が皇国民の錬成に役立てられていたことは否めない状況でした。

さらに明治天皇「御下賜」の教育勅語に至っては、日本の教育の根幹を成すものといわれてきましたが、
「我が臣民よく忠によく孝に、億兆心を一つにして、世にその美を済せるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」
であり、個人の思考と判断の自由など入る余地も無いことなのでした。

 やがて戻った平安女学院専攻部の三年間に、再び信仰の自由、解放された自己を取り戻しましたが、その間にも日独伊の防共協定が結ばれ、戦域は中国本土に拡大。
しかし、いまだ女性宣教師の英語授業を楽しみに、GFS活動ではその指導の下に、アジア諸国の女性と平和を共に求める創作劇を実演したものでした。
卒業間際に、一男性教授から「国体の本義」なる書物の購読を薦められた時、もう一つの現実の存在を学内にはっきりと感じ取っていました。

 太平洋戦争下、英語課教師として戻った平安女学院は、英語の授業も程なく打ち切られ、学徒勤労動員の発令と共に、三・四・五年の生徒たちもろとも、学内学外の軍需工場の勤労に、巻き込まれていきました。
私学にも奉安庫、神棚の設置まで強要され、報道の厳しい管制下、食料不足に耐えて工場通いに年も明け、やがて天皇による判断とされる敗戦の詔勅を聞くことになったのです。

マインド・コントロ−ル化した教育の成果は、学徒動員に、特攻隊に、アジア諸国の戦禍拡大に、一役も二役も買っていたのではないでしょうか。

キリスト者であり、教育者でもあった者として、また、一度も空襲されなかった京都に在住していた者として、今も日本の教育の目的、あり方を痛みをもって見守りたいと願うばかりです。


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