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私の戦争体験
司祭 塚田 理
一九四三年私たち中学二年生は、夏休み頃から勤労動員ということで勉強は一切放棄して、黒井(直江津の北、現在の上越市)の海岸にあった信越科学株式会社の工場で働くことになった。
この工場はカ−バイトの製造工場で、原料はせっかいと石炭でこれらを一緒に電気炉で溶かすとカ−バイトが出来上がるという単純なもの(少なくとも私たちにはそんなふうに思われた)であった。
最初の仕事はトロッコに石炭を入れて電気炉の近くまで運ぶという単純な肉体労働であった。
しかし、夏は暑さで、冬はしばしば吹雪の中で、野ざらしのせ石炭をスコップでトロッコの中に投げ入れ、それを押して行くという仕事は十四歳の少年たちにはなかなかきつかった。
この仕事でスコップの扱い方がずいぶん上手になった。
やがて、周囲の青年たちが次々と軍隊への召集令状を受け取った。
その度に一緒に働いていた私たちの彼らの送別会に招かれて
「勝ってくるぞと勇ましく」などと次々に軍歌を歌って気勢を挙げたが、何となしに本人たちの不安で切ない思いが伝わり、また陰で涙ぐむ家族たちの姿を見た後の帰りの道は寂しい思いでいっぱいであった。
こうして人手が足りなくなってくると、今度は私たちまでが実際に電気炉の仕事をすることになった。
これはうろ覚えだが、高さはほぼ二階の床位で、その二階部分に四メ−トルと十メ−トル位の長方形にレンガで囲まれた大きな箱方の炉の上層部が露出して、その中に大きな二本の電極の太い柱が差し込まれ、これが放電するとその熱で近くに投げ込まれたいた石灰と石炭が溶け、まっ赤になったドロドロのカ−バイトが一階部分の穴から流れ出てくるという仕組になっていた。
この炉の一帯は大変な暑さで、特に二階部分に上がるとしばしばまっ赤になった石灰が辺りにとび散り、しばらく立っていると着物がきな臭くなって来るというまさに熱地獄であった。
私たちの仕事は二階で電極部分の石灰と石炭が溶けて下に沈むと、その凹んだ部分を目掛けてスコップで石灰と石炭を放り込むという仕事だった。
これは危険を伴う重労働であったばかりではなく、私たちはこの仕事を昼夜三交代制でやることになったのである。
私たちは工場の近くの寮に宿泊してこの労働に従事した。
当時、食事は配給制で家では雑炊を食べて飢えを凌いでいたが、少なくとも寮では三度の食事があり、最初は米の御飯であったが、やがて麦の入った食事が出るようになった。
おかげでお腹を空かすことはなかったが、とにかく重労働で働いた後はただ寝るだけの生活をしていたのである。
電気炉の仕事はとにかく暑さで汗をかくので、塩水をがぶがぶ飲んだり、あるいはおにぎりにたっぷり塩を付けてた。
仕事の後作業着や防護用の防止や顔を覆う手拭いはびっしょりと濡れて、毎回のように洗っておく必要があった。
時々疲れて洗うのを怠けて作業着などをそのまま炉の近くにかけて干しておくと、翌日は汗で濡れた部分が白く塩の跡がついているという具合であった。
1945年の冬はまれに見る大雪で、町並みはすっかり雪の中に埋もれてしまった。
わたしたちは夜勤明けには2、3日の休みを与えられ皆数週間ぶりに自宅に帰るのを楽しみにしていた。
しかし、この冬はしばしば汽車は大雪で立ち往生し、わたしは勤労動員で宿泊していた黒井の工場から高田までの10キロあまりの雪道を歩いて帰らなければならなかった。
3、4時間も歩いてへとへとになって夕闇が迫る頃、そろそろ高田の雁木(がんぎ〜現代風に言えばア−ケ−ド)の町並みに入っているはずだと思っていくら見渡しても白い雪が見えるだけだった。
よくよく下を見ると足下から光りが漏れてくるのが見えてほっとした経験はいつまでも忘れることができない。
道は屋根からおろした雪で、二階の屋根くらいの高さになり、電線をまたいで歩いたことを覚えている。
父は聖公会の牧師で、私たちは牧師館に住んでいたが、敗戦の二年前位から、礼拝に出席する信徒の数は減少し、熱心な2、3人の信徒を除けば、あとは私たちの家族だけであった。
いや、しばし家族礼拝と呼ぶ方がいいような状態であった。
父は信徒たちをよく訪問していたが、戦争が深まるにつれ思想犯係の特別高等警察の者がいつも尾行し、父が去った後に警察官がやってきて、今牧師はどんな話をしていったか、教会にはあまり出入りしない方がいいという趣旨のことを言い残していったというわけであるから、信徒たちが礼拝出席をためらうようになったことを、私には非難する気持ちはない。
おそらく自分もあの状況の中では、恐怖が先立って同じような態度を取ったろうと想像するからである。
またその頃から、毎朝警察官が牧師館にやってきて、父の在宅を確かめに来るのが日課となった。
さて、1945年は正月からとにかく屋根の雪下ろしで明け暮れたのである。
それまでは人を頼んだり、あるいは信徒たちの応援を得たが、もはやそのような状態でなくなっていた。
なにしろ人手が足りず、牧師館だけではなく教会と幼稚園の雪下ろしが、私たち家族のほとんど三ヵ月間にわたる毎日の日課となった。
ようやく全部の屋根の雪下ろしが終わるとすでに前に雪下ろしをした屋根の雪は背の高さを遥かに超えていて、しばし戸の開け閉めができなくなった。
私も工場の休みの日には帰宅して雪下ろしを手伝った。
こんな体験は二度としたくない、というのが私の率直な実感である。
その年の春、私は体が不調となり、医者から重労働を禁じられ、ようやく1年半の肉体労働から解放されて、今度は事務所で慣れないソロバンで計算をする仕事が与えられたのである。
当時私は、周囲の人たちが子供の私に対して何となくぎこちない、そして遠慮がちな態度を示していたことには気付いていた(私がクリスチャンであることを知っていたのだろう)が、そのことで不愉快な思いをすることはなかった。
戦争の状況はけわしくなり、東京の空襲が始まった。
そして、あの田舎の信越科学にもグラマン戦闘機がやってきて、数発の爆弾を落していった。
そして8月15日がやってきた。
私たちはお昼に全員事務所に集まり、ラジオ放送を聞くように課長にいわれた。
これがあの有名な「終戦の玉音放送」であった。
私たちには天皇の甲高い独特の抑揚のある声は、あまりよく聞き取れなかったが、とにかく戦争が終わったことだけは分かった。
その直後課長が私の側にやってきて、
「塚田君、君はアメリカ人たちをよく知っていると思うが我々はこれからどうなるのだろうか。彼らは我々を殺すだろうか」
と心配そうに尋ねてきた。
私はこの時、この気の弱い課長が私の父が牧師であることをおそらく中学の教員から通報されてていたことに気付いて、はっとした。
私は
「いや、少なくとも私の知っている外国人たちはそんなことはしないと思います」
と、やっとのことで答えた。
翌日、私たちは荷物を片付けて家に帰るように言われた。
9月から再開された中学校の勉強は2年間の空白でほとんど初めからやり直さなければならないほどに全く遅れていたことを知った。
4年生の教科書のどれを見てもさっぱり分からない状態であった。
しかしそれよりも、ついこの間まで現人神(あらひとがみ)天皇、八紘一宇、神国日本、教育勅語をいつも口走っていた教師たちが急に民主主義を唱え出したのには、驚き以上に人間への深い不信感と虚無感を感じざるを得なかった。
しかし、よく反省してみれば、自分とても表面上は適当に忠実な天皇陛下の臣民であるかの様に装ってきたのであるから、大同小異であることにも気付いたのである。
言ってみれば、今はやりの「1億総マインドコントロ−ル」の時代であったのである。
こんな時代を二度と味わいたくないし、またこれからの世代の人に味あわせたくないというのが、今の私の心からの願いである。
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