三月二六日に慶良間諸島に上陸したアメリカ軍は、同地域における日本政府の行政権と司法権の停止を趣旨とする布告を公布(米国海軍軍政府布告第一号)し、沖縄での軍政が開始されました。また、本島に上陸後五日目には、読谷村渡具知軍政府を開設し、米国海軍軍政府布告第一号(太平洋方面最高司令官ニミッツ元帥の名を取ってニミッツ布告と呼ばれる)によって琉球諸島の本土からの分離を宣言しました。そして、一九四六年一月二九日にはマッカーサーのGHQ覚書によって北緯三〇度以南の南西諸島は正式に日本の行政から分離されたのです。それは、アメリカ軍の絶対的な軍事支配が沖縄の人々に乗りかかることを意味したのです。
それだけではなく、日本政府の、沖縄切り捨て政策は、沖縄戦最中の五月一一日に開催された、最高戦争指導者会議での、米内外相の、国体護持のために沖縄、小笠原、樺太、北千島を適の手に渡してもよい、という意味の発言の中にはっきりと表われていますし、また、一九四七年九月二二日付けのいわゆる天皇メッセージ文書には「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望している」と明記され、このような日本政府の態度が、一九五二年四月二八日に公布された「日本国との平和条約」第三条による沖縄分離まで一貫していたのです。
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このような中でアメリカ軍は、大手を振って沖縄の軍事基地化を進めて行くのです。住民の生活を無視して。
第二次世界大戦は、世界に幾つかの分裂国家を生み出しました。日本も、敗戦直後、スターリンが要求したように北海道の東半分をソ連が占領していたならば、分裂国家になったかもしれません。分裂国家にならなかったのは日本にとって幸運なことでした。日本国民の大多数にとっては確かにそうでした。しかし、沖縄県民にとって戦後二七年間の歴史は、分裂国家以上の苦しみだったのです。それは沖縄には主権がなかったのです。主権は事実上施政権をもつアメリカの手にありました。沖縄人を主席とする琉球政府は存在しましたが、その自治は限られていたのです。
そのような状態が、二六年前の一九七二年五月一五日まで二七年間も続いたのです。
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