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東京大空襲

東京聖三一教会 寺内 安彦


 ゴオーという列車が鉄橋を渡るときの様な音が止んだ。
数秒後ドカーンと炸裂音がする。
遠くからカン、カンと金属を地面に叩きつける音が近くに迫ってくる。
突然、防空壕の中が明るくなった。
急いで外に飛び出ると石油の臭いと一緒に辺り一面火の球が無数に吸い付いてくる。
焼夷弾だ。巨大な渡り鳥の様に無数のB29が低空で空を覆っていた。

夜が明けた。
何も残っていない。
いや、あった。死体だ。
無数にあった。
手足が硬直した茶色の人形のような死体、頭を用水桶に突っ込んだまま死んでいるもの、様々な死に方だ。
言問橋は死体がじゃまして渡れない。
防水用のプール脇で母親が泣きながら浮かんでいる女の子の死体を鳶口で引き寄せていた。
やがて、兵隊が来て死体の片付けが始まりあちこちで死体の山が出来上がった。

それから三日間、死体を焼く死臭を嗅ぐ毎日を過ごし浅草を離れた。
一九四五年三月十日の空襲で東京の下町浅草で生き残った私は中学二年生だった。
それ以来あの死臭は私の記憶から離れないままだ。

 三月十日の空襲で一体何人死んだんだ、十万人か、二十万人か、みな年寄りと女子供だ。
火叩き、鳶口、バケツリレー、何の役にも立たなかった。
消防車は車庫で焼けていた。
無差別爆撃による焦土戦術、大量殺戮、これが戦争の実態だ。
日本で、中国で、東南アジアの国々で同じことが起きた。
五十年前の出来事であり今も多くの日本人の記憶の中に、被害者として、また加害者として生きている事実だ。

 一体どうしたら若い人たち、後世の人々に戦争とは悲惨な醜い最悪の営みだということが解って貰えるだろうか。
戦争こそが人間が神さまから最も離れているときの状態だということを。
キリスト教徒といえども他の宗徒と共に幾度となく戦争を繰り返してきたし、また繰り返すかもしれない。

そんな人間を主イエスは本当にお赦しになるだろうか。
今日の平和は神の賜物なのか、あるいは人間の闘争心、征服欲が一服した状態なのか、強者による力の威圧が効果を顕わしている束の間なのか。
戦後五十年たってみると、戦争の罪悪性、すなわち神への反逆性がどれほど確認されてきただろうか。

記念集会も、反戦集会も、隣の乱暴ものがちん入してこない間の祭で終わりはしないだろうか。
戦争の本当の意味がそれを体験した人の死により風化されるのは避けられないことだろう。
そうならない様にと今でも慰霊塔を建てる話しが出て来るが、石塔を建てたところで後世の人々に戦争の地獄絵が解るはずはない。
沖縄の糸満市にある都道府県の慰霊塔を訪ねたとき、私は沖縄戦の悲惨な姿を思い浮べるよりも各県が互いに碑や塔の出来栄えを競いあっているコンクールでもあるかの様に思った。

 慰霊塔は時代と共に歴史年譜の中で乾燥した一コマの記述と同じ意味しか持たなくなる。
もし無理に意味を持たせようとすると、戦争という人間の罪の行いが、英雄とその救国の行いへと、愛国心という甘いことばの梯子で持ち上げられてしまうだろう。

ならば少なくとも石塔を建てるのを止めて、広島の原爆記念館やワシントンDCにあるホロコースト博物館の様に事実を示す記念館を後世に残しておくことの方がより望まれる。


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