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原 子 雲
目白聖公会 竹内 崇
原子爆弾といえばまず思い浮べるのが「キノコ型」をした雲の写真ではないだろうか。
あの日あの雲の下で何が起っていたのだろうか。
原子爆弾で被害を受けた人々を法律では次のように扱っている。
第一号=原爆投下の時広島市と長崎市の旧市内に居た人、
第二号=原爆投下の日から二週間以内に爆心地から二キロ以内の地域に入った人、
第三号=市外に居て救援や死体処理にあたった人、黒い雨の地域に居た人の一部、
第四号=一〜三の被爆者の母親の胎内に居た人。
これは原子爆弾の放射能が人体に与える被害がいかに大きいかを示している。
現在東京都では約一万人が被爆者手帳の交付を受け、その内約六四%が何らかの障害で病気と診断され治療を受けている。
原爆投下の日、熱線による焼死、建物などの崩壊による下敷による圧死、火災による焼死に始まり、今日まで多量に浴びた放射能による障害で次々と死んでいった被爆者、そして五十年経った現在でも被爆の後遺症により病気と戦っている人がまだ大勢いる。
戦争は自分が死んだときか核兵器が世界から無くなったときに終わるといった被爆者がいる。
その方や私には「昭和二十年八月六日午前八時十五分」、一生忘れる事の出来ない出来事が起ったのである。人々はそれぞれ職場、勤労奉仕先や家庭で何の警戒もなく暑い一日の生活を始めたばかりだった。
窓から北西の空にキラッと光るB29の姿が見えた数秒後、一瞬パッと光ったかと思うとすごい爆風に体が飛ばされ、辺りは何も見えなく、誰かに防空壕に引きずり込まれた。
辺りが明るくなり外に出ると家がない。
家の形をした柱と梁が傾いて立っている。
何が起ったのか市の中心部の方から煙が上がっている。
私の名前を呼ぶ母の声が聞えた。さっきまですぐ側にいた母が遥か遠くから大声で叫んでいる。
「おかあちゃん」といって母の胸に飛び込んで行く。
涙が出て止らない。
その涙が頬をつたったとき肌に痛みを感じた。
右手で触ってみると皮膚が動いた。
そして左手にも同じ感覚があった。
何か濡れた布を皮膚からはがしているようだった。
やけどだ。
しかし薬はない。
誰かが「小便」だといって小便で傷口を洗った。
幸い軽度のやけどだったのでケロイドにはならなかった。
廻りの人々に怪我ややけどはあったが即死とか下敷になった人はいなかった。
やや落ち着いてからも何があったのか解らない。
空襲には違いないが呉市に落されたものとは違うことは確かだった。
投下後何十分か経った頃、市の中心部から逃げてくる人が目に入った。
どの人もみな黒っぽい姿だった。
それは血の付いた衣服であったり焼けただれた裸同然の姿であった。
顔はふくれあがり、女の人は髪が顔に付いている。
昼間からお化けか幽霊を見る思いだった。
そして口々に「水、水を下さい」と苦しそうに訴えている。
私は、この人たちは一体どうしたのか、何があったのか理解することは出来ず、ただ気味が悪いし恐ろしいという気持で一杯だった。
そしてこの行列はとぎれることはなかった。
その夜満天に星が光り西の空は赤く染っていた。
そこは一瞬にして焦土と化した数万戸の家が消化されることもなく燃え続けているのであった。
当時私は国民学校一年生で原爆の本当の悲惨さは体験していない。
あの日から五十年を迎え、戦争を知らない世代が多くなり、貴重な平和が空気の様にあたりまえの様に思われる時代になってしまった。
しかし、世界中の核兵器は、依然として「平和を支える」という名の下に残念ながら保持され続けている。
同じ被爆者が被爆体験記を作った。
私たちの訴えをどうぞお読みいただきたい。
*被爆体験記『原子雲第二集』 (足立区原爆被爆者の会)
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